日本のなかのロシア〜北海道 函館 旧ロシア領事館〜 6

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煉瓦の赤と窓枠や漆喰の白が織りなすコントラストが印象的な旧ロシア領事館。玄関には寺院風の唐破風や組物を見せる柱頭などが取り入れられ和洋折衷の魅力があります。

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ペリー来航をきっかけに国内初の開港場となった函館(当時は箱館と記していました)。日本とロシア間で1854年に和親条約が交わされると、その4年後にゴシケビッチ初代領事が着任しました。はじめは実行寺内に仮領事館を、それからハリストス正教会の敷地内に正式な領事館を構えましたが、1866年に火災で焼失してしまいます。日露戦争で中断されたのち、1906年にこの場所へ移されました。現在の建物は、大火後の1908年に再建されたものです。
ロシア革命後にはソ連領事館となりますが、1944年に最後の領事が本国へ引き揚げると閉館されてしまいます。その後1996年まで、函館市が青少年宿泊研修施設として一般開放していましたが、現在は閉ざされた門の外から外観のみの見学になっているのがとても残念です。館内は、異世界へタイムスリップするような帝政ロシア時代の豪華な雰囲気が残っているのでしょうか。それとも、函館ならではの和洋折衷の不思議な雰囲気なのでしょうか・・・!
さて、旧ロシア領事館の近くには、ロシアゆかりのお寺が点在しています。

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△開港当初はイギリスやフランスの領事館が置かれていた称名寺。

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△境内には新撰組副長 土方歳三の供養碑や高田屋嘉兵衛の顕彰碑が置かれています。(お写真は函館市公式観光情報サイトはこぶらさんより)

一方、箱館開港後の1858年、ロシア領事の着任当初にロシア領事館としても利用されたのは、実行寺。

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△正門前には、大東亜戦争戦死病殉者供養塔、日露役戦死忠魂塔が建っています。

ほかにも、代表作『若きカフカス人』で知られる近代彫刻の先駆者 中原悌二郎の墓もありました。

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この作品を収蔵している茨城県立美術館の公式サイトによると、モデルはコーカサス(カフカス)生まれのニンツァという名の青年です。アジアを放浪していたニンツァは、大正8年来日しますが、かつてハルビンで知り合った画家の鶴田吾郎の友人を介して、新宿のパン屋中村屋に滞在することになりました。

中村屋に出入りしていた中原悌二郎は、この頃茨城県平磯で病気療養中のため空いていた友人の画家中村彝のアトリエを借りて、ニンツァをモデルに頭像の制作を始めます。悌二郎の妻信(のぶ)によると、制作が始まって1週間が過ぎた頃、ニンツァがモデルになるのを嫌がりだし、制作途中の作品を「鬼の顔」だと言って壊そうとしたそうです。力強い肉付けによる彫りの深い顔は意志の強そうなモデルの性格をよく表しており、また荒々しいタッチが作り出す陰影が異邦人ニンツァの神秘的な雰囲気を伝えています。

この作品について信は、「『鬼を作る』といふのも無理ないと思われる位、ニンツァの虚無的、破壊的な凶暴性といったものがにじみ出て居る。」と回想しています。さらに1週間制作を続けた後、本当に壊されかねないと思った悌二郎は早々に石膏に取り、鋳造までしてしまったといいます。わずか2週間で制作された「若きカフカス人」は、「憩える人」とともに第6回院展に出品され、高い評価を得ました。特に「若きカフカス人」は手法、精神性の両面において絶賛と言ってよいほどの評価を受け、今後の活躍が期待されましたが、その約1年半後、悌二郎は結核により、短い生命を閉じました。

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