ロシアといえばボリショイ劇場のバレエやオペラを思い浮かべる方も多くいらっしゃると思います。本館は約6年間もの長い修復工事を終えた2011年に、趣きはそのままに美しくリニューアルされました。ギリシア神話に登場する太陽神アポロンの4頭立ての馬車の銅像、ファサードには双頭の鷲。劇場広場の噴水前は、いつも劇場を愛するロシア人や世界各国からの観光客で賑わっています。

 

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1776年、女帝エカテリーナ2世がピョートル・ウルソフ公に劇場をひらく特権を与えたところからボリショイ劇場の歴史が始まったと言われています。1780年にペトロフスキー劇場として現在の場所に開館(現在も劇場脇の通りはペトロフカ通りと呼ばれています)。その後、幾度となく火事などの災難に見舞われますが、1856年にアレクサンドル2世の戴冠の日に合わせて、ボリショイ劇場としてオープンしました。

 

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△毎年秋、劇場シーズンが始まると、チャイコフスキーの三大バレエ『白鳥の湖』『眠りの森の美女』『くるみわり人形』や、ハチャトリアンの『スパルタクス』などの人気演目に加え、意欲的な新作も上演されています。この日は彫刻家ロダンの生涯をテーマにした『ロダン』。2002年に開館した隣接の新館とともに、オペラとバレエが交互に上演されています。

 

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ホール天井には、豪華絢爛なシャンデリア!高さ8m×幅6m、重さ2トンもあり、24000個のクリスタルで彩られています。そしてこのシャンデリアの上には、なんと劇場と同じ大きさのリハーサルルームが存在しているということも驚きです。緞帳の奥の舞台には3%の傾斜があり、ボリショイのダンサーたちはそこで優雅に踊ることを求められます。

 

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天井画には、アポロンと9人の女神たちが描かれていますが、実はもう1人、パレットと筆を持つボリショイ劇場オリジナルの女神が描かれていることをご存知でしたでしょうか?現在お土産ショップでは、この天井画の柄の雨傘も人気商品のひとつになっています。

 

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△総1740席のなかにはステージ両脇のBOX席など一般には販売されていない特別なシートもあり、芸術監督やスタッフ、特別なお客様が鑑賞するときに利用されます。なかでもステージ下手側のBOX席は、通称”スターリン席”と言われています。かつてレーニンによって解体の危機にさらされた劇場を救ったのは、バレエをこよなく愛していたと言われる次の指導者スターリンでしたが、暗闇で鑑賞中に危険にあわないようにと、奥まったこの場所で楽しんだのだそうです。

また、天井桟敷には立ち見200席も用意されており、両脇のステージが物理的に見えないお席にはモニターも用意されています。

 

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△これぞロシア!という深みのある赤色のシート。ロイヤルボックスの奥にはミニキッチンやトイレなどもついていて、観劇の合間にも来賓がくつろげるようになっています。また、ロイヤルボックスの双頭の鷲の飾り以外の内装はすべて、紙や木を中心に楽器を作るための素材からなっており、ホール全体が最高の音質で響くように考えられているそうです。

 

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△1856年にボリショイ劇場としてオープンした記念の年号プレートがホールの扉の上に飾られています。

 

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△最上階のグランドカフェには、ソファ席も用意され幕間におしゃべりをしながらゆったりと過ごすことが出来ます。下階にもカフェ&バースペースが用意されており、シャンパンやコーヒー、オープンサンドやフルーツ、ケーキなどを楽しむことが出来ます。

 

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△白のホワイエへと続く赤絨毯の大階段は、ちょうどドレス姿の女性がすれ違える幅に設計されているそうです。

 

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△白のホワイエでは、ドレスアップしたお客様たちが記念撮影をしたり談笑したりとなごやかに過ごしています。

 

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△バレエやオペラにまつわる貴重な資料満載の特別展示室も見逃せません。3ヶ月ごとに展示替えがあり、著名な芸術家やその作品を記念した展示や衣装などを自由にご覧頂けます。

 

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△皇帝の間(小)は、皇帝への謁見のために使用されていました。部屋の両隅に座り壁に向かって小さな声で話したとしても聞こえてしまうほど声がよく響く設計になっており、内緒話が出来ない部屋なんて言われてたりもするそうです。

 

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△そして、今回の改装工事で新しく誕生したのが、この地下のベートーヴェン・ホールです。300人収容のこのホールの客席は可動式になっており、階段状のコンサートホールから平面のバンケットルームにまで対応することが出来るようになっています。ちょうどボリショイ劇場の正面、劇場広場の噴水の真下くらいに位置しているこのホールは、高度な防音設備によって隣接する地下鉄と隔てられています。

 

モスクワへ来たらボリショイ劇場!その素晴らしいステージはもちろん、その作品が産み出されて来た劇場そのものを堪能することが出来るバックステージツアーも人気があり、運が良ければ貴重なリハーサル風景もご覧頂けます(ロシア語&英語のツアーに加え、日本語のツアーもあります)。

ボリショイ劇場 公式サイトはこちら

 

ロシアには、芸術家が生活していた家をそのまま残し展示している魅力的な“家博物館“が数多く存在しています。そのなかのひとつが、こちらの『Дом-музей К.С.Станиславского スタニスラフスキーの家博物館』です。

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偉大な脚本家であり才能豊かな俳優でもあった Константин Сергеевич Станиславский コンスタンチン・セルゲーヴィチ・スタニスラフスキー(1863~1938)。演劇に興味のある方なら一度は耳にしたことのある演技メソッド“スタニスラフスキー・システム”を築きあげ、指導者として多くの俳優を育成し、その名はロシアの演劇界のみならず世界的に知られています。ロシア文化フェスティバル IN JAPANでも、スタニスラフスキーが1898年に創設したМХАТ им. А.П.Чехова モスクワ芸術座や、スタニスラフスキーの名前が冠されたМосковский академический музыкальный театр им. К. С. Станиславского и В. И. Немировича-Данченко スタニスラフスキー&ネミロヴィチ・ダンチェンコ記念音楽劇場の作品が、公式プログラムとして上演されたり関連本が出版されたりしてきました。

 

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かつては“スタニスラフスキー通り”と呼ばれていた通りから、門をくぐりドアの前に立つと、まるでスタニスラフスキーの邸宅にお招き頂いたような気分を味わうことができます。スタニスラフスキーは、19世紀中後半のロシア・クラシシズムでしつらえられたこの建物の2階部分で、1921年(58歳)から1938年(75歳)までの晩年17年間を過ごしました。そして、彼の死後10年が経過した1948年に博物館として開館しました。

大切に手入れ保管されてきた内部は、細部にいたるまですべてにスタニスラフスキーの息づかいを感じます。

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スタニスラフスキーはもともとはダンスホールとして使用されていたサロンを劇場に改装しました。このステージの特徴的な4本の柱が、のちにスタニスラフスキー&ネミロヴィチ・ダンチェンコ記念音楽劇場の紋章のもとになったそうです。こけら落としとなった作品は『エブゲニー・オネーギン』で、それ以来ここは“オネーギンスキー・ホール“と呼ばれています。現在もコンサートや演劇が行われていますが、大劇場とはまたひと味違う臨場感や温もり、スタニスラフスキーの意思を肌で感じることが出来る特別なホールとしてロシアの人々に愛されています。

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△スタニスラフスキーはこの椅子に座り、モスクワ芸術座の俳優たちを演出・指導したそうです。

 

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△実際に舞台に上がってみることも出来ますし、緞帳の裏の舞台裏を覗くことも出来ます。農奴芸術家たちによって改装されたそうですが、どの部屋も天井に描かれた絵までとても美しくこだわった作りになっており、調度品や小物のひとつひとつからもスタニスラフスキーの美的センスを感じます。

 

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△入館して階段を上がるとはじめに広がるこの空間は、通称“青の間”と呼ばれ、リハーサルや上演の際の待合ロビーとしても使用されていました。奥の白い扉の向こうが劇場スペースです。

 

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△実際に使用されていた椅子やテーブル。

 

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△こちらは舞台裏から繋がっている“赤の間”。ステンドグラスには騎士が、天井には馬がモチーフに描かれています。

 

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△書斎の扉は2枚分もの厚さがあり、可愛らしい装飾が施されています。取っ手の部分を触ると成功できると言われており、いつからか俳優さんたちはもちろん訪れる人が皆、願いをこめて触れるようになったため、ピカピカと輝いていました。

 

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△1895年スタニスラフスキーがイタリアを訪問し、シェイクスピアの『オセロ』を演じた時に購入したというお気に入りの椅子。ここから数多くの傑作が生まれたのですね!

 

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△寝室の棚の上、ベッドからもよく見える場所には、舞踊家イサドラ・ダンカンから贈られたという花瓶が飾られています。心臓発作で倒れてからはここから動くことが出来なかったそうです。小さなベッドには、まるで今朝着替えたばかりであるかのように、白いパジャマも置かれていました。実はスタニスラフスキーというのは芸名で、本名はアレクセーエフといい、フランスで女優をしていた祖母をはじめアレクセーエフ家のポートレートが並ぶ食堂もありました。

 

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△モスクワ芸術座の美人女優であり、よき妻で母でもあったマリヤ・ペトローヴナ・リリナの部屋や寝室も公開されています。化粧台には当時のメイク道具や愛用の品々、得意だったという刺繍やレース、壁には尊敬するチェーホフの写真も飾られていました。

 

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△アンナ・カレーニナのヴロンスカヤ伯爵夫人を演じたときの衣装。チェーホフの戯曲『かもめ』のマーシャ役、『ワーニャ伯父さん』のソーニャ役、『三人姉妹』ナターシャ役など主要な役を演じていました。

 

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△ 1階&3階部分には、さまざまな作品で使用された衣装や小道具が展示されていました。なかでも印象的だったのは・・・こちらの作品。

 

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△英国のサリバン作『ミカド』という日本を題材にしたオペレッタ作品です。1887年にスタニスラフスキー自らが演じたときの写真や、衣装と小物のコレクションも展示されています。

 

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△着物には少し中国的な要素も感じられますが、スタニスラフスキーは当時、自宅に住まわせた日本人から直接、歩き方や立ち居振る舞い、お辞儀の仕方、そして芸者の舞いや扇子などの扱い方などを教わり徹底的に研究したのだそうです。

スタニスラフスキーが日本とこのような深いつながりがあったことはあまり知られていませんね。

これからはロシア文化フェスティバル IN JAPAN公式プログラムをさらに深くお楽しみいただけるような場所を、モスクワからご紹介してまいりますのでどうぞお楽しみに!

 

Дом-музей К.С.Станиславского

住所:Москва, Леонтьевский переулок, дом 6.

公式サイト:https://www.museum-stanislavsky.com

リニューアルした新宿中村屋ビルで楽しむロシアをご紹介いたしましたが、こちらは番外編。

温泉も鴨川シーワールドもマザー牧場もいいですが、南房総へいらしたら立ち寄ってほしいのが、館山中村屋さんです。

 

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パンやケーキを買う人で賑わう店内ですが、

 

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注目は、ロシアケーキ。

 

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中村屋さんのロシアケーキの始まりは明治期にまでさかのぼります。新宿中村屋で修行中だった長束実氏が、ロシア皇帝のお抱え製菓技師に正統なロシアケーキ作りの技術を伝授され、その技術を2代目七郎氏が引き継ぎ、戦後3代目長束氏が受け継ぎました。(公式サイトより転載)

 

 

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まずビスケットを焼き、アーモンド、ピーナツ、砂糖などを用いたマコロンをその上に絞りつけ、さらに丹念に二度焼きして作る6種類のロシアケーキは、現在こちら館山中村屋さんでしか購入できないそうです。

 

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最上階レストラン、3階の美術館、そして最後は地下1階のショップBonnaボンナでお土産選びです。新宿中村屋で1933年から販売され人気商品のひとつだったピロシキが、“新宿ピロシキ“として新たに登場!

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△屋台風に揚げたてを購入できます。隣には、もうひとつの人気商品カリーパンも。

 

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△ピクルスが添えられている丸い形が特徴です。

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△中身は、たっぷりのお肉にキャベツや春雨、卵などで全体的にふんわりと優しいお味にまとめられている揚げピロシキ。新宿本店限定です!

 

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△人気のボルシチ缶詰。地下2階にはカジュアルなレストランMannaマンナもあり、こちらでもボルシチをオーダーできます。

 

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△ピロシキにも添えられていたアグレッツィ(きゅうりの漬け物)も購入可能です。

 

ぜひ新宿中村屋でロシアを楽しんでみてはいかがでしょうか。

 

さて、ボルシチしゃぶしゃぶで暖まったら、同ビル3階の中村屋サロン美術館はいかがでしょうか。

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中村屋の歴史を知り、ゆかりの展示をみることができます。「己の生業を通じて文化・国家(社会)に貢献したい」という想いで相馬愛蔵・黒光夫妻によって創業された中村屋は、明治の末から大正にかけて、女優 松井須磨子や彫刻家 高村光太郎、画家 竹久夢二や劇作家 秋田雨雀をはじめ美術、演劇、文学などさまざまな分野の芸術家が集まり“中村屋サロン“と称されていました。

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△ミュージアムショップで売られているエロシェンコのポストカード

日本の盲学校で学ぶために大正3年に来日したエスペランティストで盲目の詩人ワシーリー・エロシェンコも、中村屋ゆかりの人物のひとりです。ロシア文学好きでロシア語が堪能であった中村屋創業者の相馬黒光さんの呼びかけもあって、お店で朗読会が開かれたり、エロシェンコが中村屋のアトリエに住まわせてもらうようになったりと深い交流がつづくなかで、中村屋にボルシチが生まれました。(公式サイト内の創業者ゆかりの人々ボルシチ│商品の歴史│より)

 

 

 

明けましておめでとうございます。日本のなかのロシアをシリーズでお届けしておりますロシア文化フェスティバルblog、今年もお付き合いいただけましたら嬉しいです。さて、ロシア料理の恋しい季節到来。寒いときには寒い国のお料理が美味しいですね!

2014年10月に美術館やテナントも入ってリニューアルオープンした新宿中村屋ビル。おそらく世界でもここでしか食べることができない日露合作メニュー“ボルシチしゃぶしゃぶ“を頂くことができます。

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△ロシアはもちろん、インドや中国、フランスなど各国料理を取り入れて商品展開してきた新宿中村屋さんならではのメニューが用意されている最上階レストランGranna(グランナ)。注目のメニュー「ボルシチの和牛しゃぶしゃぶ鍋 シチリアバター&サワークリーム添え」は、ディナーはアラカルトで2300円、ランチは事前予約のうえ6500円のコースメニューのメインとして頂くことが出来ます。

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本日のランチコースは、キャビアと蟹のサラダ、フォアグラボールの前菜やウニの茶碗蒸し、魚料理に真鯛のポワレ、そしてついに・・・!

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ボルシチしゃぶしゃぶが登場!

テーブルの上の土鍋には、ぐつぐつと煮えたボルシチ風トマトスープ(中村屋のボルシチは、ビーツではなくじっくり煮込んだトマトで赤みをだしています)。すでに下茹でしてあるお野菜やソーセージなどをいれてポトフのようにしてから、そこに、和牛をさっとくぐらせます。

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ロシア人にも人気のあるしゃぶしゃぶ鍋。とろけるお肉に、野菜と肉の旨味がたっぷりのスープであったまります。

添えられているシチリアバター(ニンニクとパセリ入り)やサワークリームを落として、味の変化も楽しめます。昭和2年から提供していらっしゃるという中村屋のボルシチは、もともと塊肉ではなく薄切りのお肉を使用していたそうで、厨房でそのボルシチスープとお肉を偶然にもしゃぶしゃぶしてみたら意外にも美味しかったので考案されたようです。

 

以前の中村屋でも、パーティの裏メニューとして“ボルシチしゃぶしゃぶ“が登場したことがあったそうですが、新生・中村屋の看板メニューのひとつとして新たに加わったのだそうです。

 

 

 

 

日本のなかのロシア〜墨田区・榎本武揚像〜

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By russian-festival | Filed in 未分類 | No comments yet.

函館では幕末の最後を語るうえで印象深い箱館戦争の舞台となった五稜郭を訪れ、明治にシベリアを横断し、樺太千島交換条約に調印、ロシア特命全権公使を2年間務めた榎本武揚についてもご紹介いたしました。そして、ここ東京にも、榎本武揚像に出逢える場所があります。

 

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それがこちら、墨田区の向島にある梅若公園です。どこかロシアを彷彿とさせる広いまっすぐの道に延々と連なる巨大な団地群。防火壁の役割も果たしているという都営白鬚東アパートにお住まいの皆様の憩いの場に突如出現し、威厳あるお姿で彼方を見つめていらっしゃいます。

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榎本武揚が晩年住んでいたのも向島だったことから、この地に建立されたようです。

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台座には、『正二位勲一等子爵 榎本武揚像』と記され、

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台座の奥には『誠』の石碑も置かれています。

すぐ脇には、 東京都指定旧跡の『梅若塚』もあります。能楽や浄瑠璃、歌舞伎、謡曲などでは『隅田川』に登場する伝説の人物、梅若丸。平安時代、京の都から人買いにさらわれ、挙げ句の果てに隅田川のほとりで病に倒れてしまう12歳の梅若丸と、愛息を捜しつづけ、不幸な結末に絶望して墨田川に身を投じてしまう母を描いた胸の締めつけられるようなお話です。この塚は、身寄りのない梅若丸を看取り、母への想いとともに供養した墨田の人々の情深さの象徴ともいえます。

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現在、墨田川沿いには、『すみだが誇る世界の絵師 葛飾北斎が描いた風景をたどろう』という素敵な試みによって、16枚の北斎の絵と実際の風景を見比べながら散歩できるモデルコースなども紹介されています。

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榎本武揚像のある梅若公園付近の案内板には、代表作『富嶽三十六景』のなかの1枚『隅田川関谷の里』が解説されていました。

 

なお、都内には文京区・吉祥寺で榎本武揚のお墓を参拝することができます。また、墨田区でロシアにまつわる場所としてはほかに、回向院に帆掛け船の形をした海難供養碑があり、シベリアを横断してサンクトペテルブルグに赴きエカテリーナ女帝に謁見の後に帰国を果たしたロシア漂流民の大黒屋光太夫の名前が記されています。さらに詳しくお知りになりたい方は、『日本のなかのロシア』シリーズ全4冊(東洋書店ユーラシア・ブックレット)や、『ドラマチック・ロシア IN JAPAN』1〜3(生活ジャーナル、東洋書店)をご参照ください。

 

2006年4月1日にオープンした高さ107mの新しい五稜郭タワーは函館のランドマークです。

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向こうには函館山や津軽海峡、そして目の前に広がる星形の眺望!

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展望台には、五稜郭の歴史が学べる展示スペース『五稜郭歴史回廊』も。

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いち早く文明開化の道を歩み始めた函館。開港場での交流など、ロシアとゆかりの深い人物や、ロシアに関する記述も。

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△『ろしやのいろは』西欧文化に触れ、外国人が箱館の街を歩くようになり、外国語に興味を持つ人も増えてきたときの1冊。

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△世界の星形城郭を紹介するコーナーにも・・・

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△ロシア サンクト・ペテルブルグの星型城塞、ペトロパブロフスク要塞

五稜郭のなかもお散歩しましたが、ゆかりの人物について学べるようになっていました。

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△明治にシベリアを横断し、ロシア特命全権公使を2年間務めた榎本武揚。樺太千島交換条約に調印しました。

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△西洋型帆船で航海測量をする一方、露領ニコライスキーまで航海して交易も行った武田斐三郎。

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△樺太国境確定交渉の遣露使節団の代表正使としてロシアへ派遣され、日露間樺太島仮規則に調印した小出大和守。

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それにしても、さすが函館!街中の案内図やインフォメーション表示には必ずロシア語もあります。

函館市旧イギリス領事館には開港の歴史や文化を楽しく学ぶことができる開港ミュージアムがあります!

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船室のような展示室。樽には仕掛けが施してあり、スコープをのぞくと明治へタイムスリップできたり、ハンドルを回すと音楽に合わせてダンスが始まったり。ゆらゆらと波に揺られている気分を味わえるベンチも。

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外国船の影が忍び寄る開港前夜から、ペリーの黒船来航をきっかけに日本で初の国際貿易港として開港するまで、時代や興味深いテーマに分かれて分かりやすくまとまっています。

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△ロシア領事のゴシケーヴィチに写真を習得し、洋服の仕立て人から北海道初の商業写真師になった木津幸吉や、ロシア軍艦で函館に来た画工のレーマンから洋画の技法を学び、その方法のひとつとして写真も習得した横山松三郎。

階段を降りていくと、敷き詰められた絨毯に『箱館開港 世界大鳥瞰図』!

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国際都市函館の外国領事についても解説されていました。1857年に長崎で結ばれた日露追加条約で貿易港としての下田は閉鎖されることになり、ロシア本国は最初の日本領事を箱館に派遣しました。翌1858年にロシア領事ゴシケヴィッチ一行15名が到着。実行寺を仮領事館として教会を建てます。開港後に幕府の許可を受けて日本で最初に作られたキリスト教会です。1860年には現在のハリストス正教会の場所に壮麗な白亜の領事館と付属聖堂を建てて有名になりました。

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△箱館に“ヲロシヤ“も見えます。

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△露西亜もあります。

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煉瓦の赤と窓枠や漆喰の白が織りなすコントラストが印象的な旧ロシア領事館。玄関には寺院風の唐破風や組物を見せる柱頭などが取り入れられ和洋折衷の魅力があります。

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ペリー来航をきっかけに国内初の開港場となった函館(当時は箱館と記していました)。日本とロシア間で1854年に和親条約が交わされると、その4年後にゴシケビッチ初代領事が着任しました。はじめは実行寺内に仮領事館を、それからハリストス正教会の敷地内に正式な領事館を構えましたが、1866年に火災で焼失してしまいます。日露戦争で中断されたのち、1906年にこの場所へ移されました。現在の建物は、大火後の1908年に再建されたものです。
ロシア革命後にはソ連領事館となりますが、1944年に最後の領事が本国へ引き揚げると閉館されてしまいます。その後1996年まで、函館市が青少年宿泊研修施設として一般開放していましたが、現在は閉ざされた門の外から外観のみの見学になっているのがとても残念です。館内は、異世界へタイムスリップするような帝政ロシア時代の豪華な雰囲気が残っているのでしょうか。それとも、函館ならではの和洋折衷の不思議な雰囲気なのでしょうか・・・!
さて、旧ロシア領事館の近くには、ロシアゆかりのお寺が点在しています。

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△開港当初はイギリスやフランスの領事館が置かれていた称名寺。

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△境内には新撰組副長 土方歳三の供養碑や高田屋嘉兵衛の顕彰碑が置かれています。(お写真は函館市公式観光情報サイトはこぶらさんより)

一方、箱館開港後の1858年、ロシア領事の着任当初にロシア領事館としても利用されたのは、実行寺。

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△正門前には、大東亜戦争戦死病殉者供養塔、日露役戦死忠魂塔が建っています。

ほかにも、代表作『若きカフカス人』で知られる近代彫刻の先駆者 中原悌二郎の墓もありました。

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この作品を収蔵している茨城県立美術館の公式サイトによると、モデルはコーカサス(カフカス)生まれのニンツァという名の青年です。アジアを放浪していたニンツァは、大正8年来日しますが、かつてハルビンで知り合った画家の鶴田吾郎の友人を介して、新宿のパン屋中村屋に滞在することになりました。

中村屋に出入りしていた中原悌二郎は、この頃茨城県平磯で病気療養中のため空いていた友人の画家中村彝のアトリエを借りて、ニンツァをモデルに頭像の制作を始めます。悌二郎の妻信(のぶ)によると、制作が始まって1週間が過ぎた頃、ニンツァがモデルになるのを嫌がりだし、制作途中の作品を「鬼の顔」だと言って壊そうとしたそうです。力強い肉付けによる彫りの深い顔は意志の強そうなモデルの性格をよく表しており、また荒々しいタッチが作り出す陰影が異邦人ニンツァの神秘的な雰囲気を伝えています。

この作品について信は、「『鬼を作る』といふのも無理ないと思われる位、ニンツァの虚無的、破壊的な凶暴性といったものがにじみ出て居る。」と回想しています。さらに1週間制作を続けた後、本当に壊されかねないと思った悌二郎は早々に石膏に取り、鋳造までしてしまったといいます。わずか2週間で制作された「若きカフカス人」は、「憩える人」とともに第6回院展に出品され、高い評価を得ました。特に「若きカフカス人」は手法、精神性の両面において絶賛と言ってよいほどの評価を受け、今後の活躍が期待されましたが、その約1年半後、悌二郎は結核により、短い生命を閉じました。