Archive for 7月, 2016

日本のなかのロシア〜茨城・山下りんの白凛居〜

土曜日, 7月 30th, 2016

ロシア正教で祈りのために描かれる聖像画“イコン”。明治13年、イコン画家になるため、単身ロシアに留学し、日本最初のイコン画家になった女性、山下りんの貴重な遺品を収蔵、展示している白凛居へ行ってまいりました。

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△月に2、3度のみ開館している白凛居。一軒家のなかがギャラリーになっていて、りんの生涯を辿ることができます。

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△(館内写真は公式サイトより転載)

ご自身の履歴のはじめに「生来画を好む」と書いた山下りんは、描くことを求めて、まっすぐに生涯を過ごしました。安政4年(1858年)茨城の笠間に生まれ、15歳のときにもっと本格的に絵を学びたいと家出して上京。明治政府が創設した工部美術学校初の女子学生の一人となり、そのときに学友の勧めでロシア正教に入信。そしてそこで、彼女の運命を変えるニコライ神父と出逢います。

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△東京・御茶の水の東京復活大聖堂は、ニコライ神父の名前をとってニコライ堂と呼ばれています。(過去関連ブログ 日本のなかのロシア〜台東区・谷中霊園〜

日本で正統のイコンを描ける人材を育てたいというニコライ神父の想いを受けて、山下りんは単身ペテルブルグへ渡り、修道院でイコン画を学びはじめます。ロシアへ行けばさらに西洋画を学べるはずだと考えていたりんは、エルミタージュ美術館へ通い模写をするなど自分の憧れている西洋画と、自分が描かねばならないイコン画との表現の違いに悩み、そのうちエルミタージュへの出入りも禁じられてしまい、体調を崩して帰国します。のびのびとした絵画の可能性とは正反対で、自分の作品の証である署名すら禁じられているイコン。帰国後も数年間の葛藤する時期を経て、イコン画家として生きていく決意を固め、今のニコライ堂の一角にアトリエを与えられて、日本全国のロシア正教会のためにイコンを描き続けます。

 

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修業時代の画材、エルミタージュ美術館で模写した絵、ロシア語の格変化が小さな美しい字でぎっしりと書かれた紙、日本全国の教会のイコンの下絵(長いこと誰が描いたのか謎だったイコンも、りんの遺品のなかに保管されていた下絵の存在で明らかになりました)。そして一番逢いたかったのが、イコンを描き続けた山下りんが、その生涯でたった1枚だけ自分のために描き、署名の許されないイコンの裏側にイリナ山下と自分の洗礼名を記して、死ぬまで手元に置きつづけたというイコン『ウラディミルの聖母』。このイコンに込められた画家 山下りんの魂は受け止めきれないほどに深く重いもので、長い間このイコンの前から動くことができませんでした。

 

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ほかにも山下りんのイコンを求めて全国の教会へ訪ね歩いた写真や、これまでの山下りん展の関連品、ニコライ神父の日記など山下りんに関する書籍や研究本、そしてエルミタージュ美術館に収蔵されている山下りんのイコン画の画像など・・・りんの生涯とイコンを深く感じることができます。

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△りんが生きていた頃からあるという庭の奥の2本の樹木。61歳でこの笠間に戻ってきたりんは、白内障を患いもう絵筆をもつことはなかったそうですが、ロシア時代に強くなったのでしょうか・・・毎日二合徳利をもって日本酒を買いにいくのが楽しみだったとか。ここで 静かに穏やかに余生を過ごしたそうです。

 

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このあと、すこし足を伸ばして、梅で有名な偕楽園を散策したのですが、 正岡子規の句碑 「崖急に 梅ことごとく 斜めなり」をみつけ、どんな環境でも与えられた場所で、精一杯に太陽のほうへ枝をのばし葉を茂らせて、長い冬のあとに美しい花を咲かせ実をつける梅の様子に、山下りんの一生を重ねてしまいました。

 

なお、笠間市内の光照寺に山下りんの墓が、笠間日動美術館では作品もご覧頂けます。

『日本のなかのロシア』をさらに詳しくお知りになりたい方には、『日本のなかのロシア』シリーズ全4冊(東洋書店ユーラシア・ブックレット)や、『ドラマチック・ロシア IN JAPAN』1〜3(生活ジャーナル、東洋書店)をご参照ください。

日本のなかのロシア〜修善寺温泉とハリストス正教会〜

木曜日, 7月 28th, 2016

前回のブログでは、夏目漱石の墓もある雑司ヶ谷霊園でロシアを探しましたが、夏休みに少し足を伸ばした修善寺でも、ちょっと面白いロシアとの出逢いがありました。

温泉街を流れる桂川に沿って、小鳥の声を聞きながら竹林の小径を散策していると・・・和の風景のなかで異彩を放つ洋風建築が!

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修善寺ハリストス正教会顕栄聖堂は、顕栄(主の変容)祭を記憶して建てられており、明治45年に成聖されました。ニコライ大主教が病気治療のために修善寺に湯治にいらしたときに、病気平癒を祈願して、70名の信徒と職人によって3ヶ月半という驚異的な期間で完成したと記録されています。このことへの感謝の印として、神田ニコライ堂で預かっていた日露戦争の時に旅順にあった教会のイコノスタス・水晶のシャンデリア・聖母の絵などがこの聖堂に贈られ飾られています。

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また、日本人で初めてイコン画家となった山下りん作の十字架の聖像が内部の聖堂にあります。18メートルの鐘楼を揚げる聖堂内のイコノスタスは、色彩、デザインとも他の日本の正教会ではあまり類を見ないものだそうです。

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また、2004年に伊豆を直撃した台風22号の影響を受け、聖堂と信徒集会所が大きな被害を受けましたが、現在は無事に修復されました。ロシア正教の洗礼を受けたモイセイ河村伊蔵による設計で、昭和60年に静岡県の有形文化財にも指定されています。モイセイ河村伊蔵が設計し、現在国の重要文化財に指定されている豊橋ハリストス正教会聖堂函館ハリストス正教会復活聖堂にも通じるヴィザンチン建築の美しさがあります。今は、月に1、2度、晩祷・聖体礼儀のときに司祭が訪れ内部へ入ることができます。

 

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弘法大師が修禅寺を開山してから栄えてきたといわれる修善寺温泉は、ニコライ大主教が訪れたこともあり、明治時代にはロシア正教の布教が盛んになりました。この修善寺ハリストス正教会は、地元の有力者でありロシア正教の信者でもあった老舗旅館・菊屋当主の発案だったといわれております。

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△明治期より多くの皇族や政財界の要人が宿泊し、明治末期には文豪の夏目漱石が湯治に訪れたことでも知られている湯回廊・菊屋。桂川の上に架かる渡り廊下を抜けて、明治・大正・昭和・平成・・・と時代ごとに異なる建築様式の客間や温泉が回廊でつながっています。

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△胃潰瘍の療養のために、「梅の間」に宿泊した夏目漱石(現在は「漱石の間」として宿泊可能)。また漱石が滞在したというもう一部屋の客室は、現在は漱石庵として公開されているそうです。館内には、漱石が実際に使用した硯や碁盤も展示されていました。

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△菊屋の歴史が紹介されている廊下のむこうには、八角堂と呼ばれる喫茶スペースになっており、サイフォンで淹れたての水だしコーヒーを頂くことができます。

 

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△金庫の上に置かれているのは、大きなアンティークのサイフォン。本棚には、年季の入った漱石全集とトルストイ!実際に漱石の本棚にも、トルストイの小説があったといわれています。また、ロシアの有名高級食料品店「エリセーエフ」家のセルゲイ・エリセーエフ氏は、日本へ留学し東京帝国大学国文科を卒業後に東洋学者になった人物で、留学時には漱石を中心とする文人の集まりである「木曜会」にも出入りしていたそうで、漱石からは「五月雨や 股立ち(ももだち)高く 来る(きたる)人」と署名のある『三四郎』をもらって、これを家宝にして愛読していたといわれています。

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清流の流れを聴きながら、湯上がりに美味しいコーヒー片手に、ゆったりと漱石の世界へタイムスリップ・・・なんて優雅な過ごし方ですね。

さらに、修善寺温泉の中心に位置し、1872年創業の木造純和風建築が、国の文化財にも指定されている老舗旅館新井旅館の創業初代 相原平右衛門氏もロシア正教の洗礼を受けた一人。

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△文豪の泉 鏡花や芥川 龍之介、尾崎 紅葉、幸田 露伴、画家の横山 大観や速水 御舟、川合 玉堂、俳人の高浜 虚子や、役者の初代 中村 吉右衛門、市川 左団次など、数多くの文人墨客が滞在した宿として知られています。

 

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△明治14年にロシア正教の影響を受けて建てられ、客室として使われていたという新井旅館の青州楼。現在は宿泊・公開されていないそうですが、今も変わらず新井旅館のシンボルとなっています。

 

伊豆修善寺温泉 登録文化財 新井旅館 ブログ  「あらゐ日記」のなかには、の当時の貴重なお写真も。

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ほかにも伊豆には、柏久保ハリストス正教会があります。

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この地区で最も古く明治13年に最初の洗礼が行われました。木造茅葺(かやぶき)の小堂から始まり、その後、現在の会堂が明治42年に建立されました。ロシアから送られたイコンと、山下りんの聖像があるそうです。

(内部のお写真と概要は日本正教会HPから、軒下のぶどう飾りのお写真は新井旅館blogから転載させていただきました。)

日本のなかのロシア〜豊島区・雑司ヶ谷霊園〜

水曜日, 7月 20th, 2016

今回は豊島区にある雑司ヶ谷霊園でロシアを探してみましょう。

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ラファエル・フォン・ケーベル博士(Рафаэль фон Кёбер 1848年 - 1923年)は、ロシアのニジニノヴゴロド出身のドイツ系ロシア人で、明治政府のお雇い外国人として来日し、東京帝国大学(現 東京大学)で教鞭をとった哲学者です。幼い頃からピアノの才能があり、モスクワ音楽院では、あのチャイコフスキーやルビンシテインに師事しました。卒業後は、音楽家の道ではなく、ドイツで哲学を学びますが、来日中には、東京音楽学校(現 東京藝術大学)でピアノを教えていたほか、1901年(明治34年)の日本女子大学校(現 日本女子大学)開校式のための『日本女子大学校開校式祝歌』を作曲したり、1903年、日本におけるオペラ初演の際に、ピアノ伴奏を担当したとも言われています。日露戦争から第一次世界大戦への過酷な時期を日本で過ごしたケーベル博士は、晩年にロシア正教からカトリックに改宗したため、その墓にはカトリック十字架が立てられています。

 

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大変学生たちに慕われていたというケーベル先生の教え子のひとりであった夏目漱石は、後年に随筆『ケーベル先生』を著しています。小説『こゝろ』のなかで先生が墓参りに通う舞台にもなっている雑司ヶ谷霊園には、そんな夏目漱石のお墓もあります。

来日中に、ケーベル博士の専属料理人を務めていたのが、千代田区神田 淡路町の西洋料理店「松栄亭」初代店主の堀口岩吉氏でした。当時、駿河台のケーベル邸を訪れた夏目漱石は、ここで御馳走になった“洋風かき揚げ“をいたく気に入り、初代が開店する際にメニューに加えたといわれています。創業明治40年からの古き良き時代の味は、今も看板メニューとして愛され続けています。

 

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△お写真は『神保町へ行こう』より転載)

 

 

なお、『日本のなかのロシア』をさらに詳しくお知りになりたい方には、『日本のなかのロシア』シリーズ全4冊(東洋書店ユーラシア・ブックレット)や、『ドラマチック・ロシア IN JAPAN』1〜3(生活ジャーナル、東洋書店)をご参照ください。