Archive for 11月, 2016

日本のなかのロシア〜北海道 函館 五稜郭〜 8

月曜日, 11月 21st, 2016

2006年4月1日にオープンした高さ107mの新しい五稜郭タワーは函館のランドマークです。

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向こうには函館山や津軽海峡、そして目の前に広がる星形の眺望!

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展望台には、五稜郭の歴史が学べる展示スペース『五稜郭歴史回廊』も。

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いち早く文明開化の道を歩み始めた函館。開港場での交流など、ロシアとゆかりの深い人物や、ロシアに関する記述も。

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△『ろしやのいろは』西欧文化に触れ、外国人が箱館の街を歩くようになり、外国語に興味を持つ人も増えてきたときの1冊。

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△世界の星形城郭を紹介するコーナーにも・・・

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△ロシア サンクト・ペテルブルグの星型城塞、ペトロパブロフスク要塞

五稜郭のなかもお散歩しましたが、ゆかりの人物について学べるようになっていました。

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△明治にシベリアを横断し、ロシア特命全権公使を2年間務めた榎本武揚。樺太千島交換条約に調印しました。

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△西洋型帆船で航海測量をする一方、露領ニコライスキーまで航海して交易も行った武田斐三郎。

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△樺太国境確定交渉の遣露使節団の代表正使としてロシアへ派遣され、日露間樺太島仮規則に調印した小出大和守。

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それにしても、さすが函館!街中の案内図やインフォメーション表示には必ずロシア語もあります。

日本のなかのロシア〜北海道 函館 開港ミュージアム〜 7

木曜日, 11月 17th, 2016

函館市旧イギリス領事館には開港の歴史や文化を楽しく学ぶことができる開港ミュージアムがあります!

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船室のような展示室。樽には仕掛けが施してあり、スコープをのぞくと明治へタイムスリップできたり、ハンドルを回すと音楽に合わせてダンスが始まったり。ゆらゆらと波に揺られている気分を味わえるベンチも。

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外国船の影が忍び寄る開港前夜から、ペリーの黒船来航をきっかけに日本で初の国際貿易港として開港するまで、時代や興味深いテーマに分かれて分かりやすくまとまっています。

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△ロシア領事のゴシケーヴィチに写真を習得し、洋服の仕立て人から北海道初の商業写真師になった木津幸吉や、ロシア軍艦で函館に来た画工のレーマンから洋画の技法を学び、その方法のひとつとして写真も習得した横山松三郎。

階段を降りていくと、敷き詰められた絨毯に『箱館開港 世界大鳥瞰図』!

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国際都市函館の外国領事についても解説されていました。1857年に長崎で結ばれた日露追加条約で貿易港としての下田は閉鎖されることになり、ロシア本国は最初の日本領事を箱館に派遣しました。翌1858年にロシア領事ゴシケヴィッチ一行15名が到着。実行寺を仮領事館として教会を建てます。開港後に幕府の許可を受けて日本で最初に作られたキリスト教会です。1860年には現在のハリストス正教会の場所に壮麗な白亜の領事館と付属聖堂を建てて有名になりました。

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△箱館に“ヲロシヤ“も見えます。

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△露西亜もあります。

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日本のなかのロシア〜北海道 函館 旧ロシア領事館〜 6

月曜日, 11月 7th, 2016

煉瓦の赤と窓枠や漆喰の白が織りなすコントラストが印象的な旧ロシア領事館。玄関には寺院風の唐破風や組物を見せる柱頭などが取り入れられ和洋折衷の魅力があります。

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ペリー来航をきっかけに国内初の開港場となった函館(当時は箱館と記していました)。日本とロシア間で1854年に和親条約が交わされると、その4年後にゴシケビッチ初代領事が着任しました。はじめは実行寺内に仮領事館を、それからハリストス正教会の敷地内に正式な領事館を構えましたが、1866年に火災で焼失してしまいます。日露戦争で中断されたのち、1906年にこの場所へ移されました。現在の建物は、大火後の1908年に再建されたものです。
ロシア革命後にはソ連領事館となりますが、1944年に最後の領事が本国へ引き揚げると閉館されてしまいます。その後1996年まで、函館市が青少年宿泊研修施設として一般開放していましたが、現在は閉ざされた門の外から外観のみの見学になっているのがとても残念です。館内は、異世界へタイムスリップするような帝政ロシア時代の豪華な雰囲気が残っているのでしょうか。それとも、函館ならではの和洋折衷の不思議な雰囲気なのでしょうか・・・!
さて、旧ロシア領事館の近くには、ロシアゆかりのお寺が点在しています。

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△開港当初はイギリスやフランスの領事館が置かれていた称名寺。

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△境内には新撰組副長 土方歳三の供養碑や高田屋嘉兵衛の顕彰碑が置かれています。(お写真は函館市公式観光情報サイトはこぶらさんより)

一方、箱館開港後の1858年、ロシア領事の着任当初にロシア領事館としても利用されたのは、実行寺。

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△正門前には、大東亜戦争戦死病殉者供養塔、日露役戦死忠魂塔が建っています。

ほかにも、代表作『若きカフカス人』で知られる近代彫刻の先駆者 中原悌二郎の墓もありました。

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この作品を収蔵している茨城県立美術館の公式サイトによると、モデルはコーカサス(カフカス)生まれのニンツァという名の青年です。アジアを放浪していたニンツァは、大正8年来日しますが、かつてハルビンで知り合った画家の鶴田吾郎の友人を介して、新宿のパン屋中村屋に滞在することになりました。

中村屋に出入りしていた中原悌二郎は、この頃茨城県平磯で病気療養中のため空いていた友人の画家中村彝のアトリエを借りて、ニンツァをモデルに頭像の制作を始めます。悌二郎の妻信(のぶ)によると、制作が始まって1週間が過ぎた頃、ニンツァがモデルになるのを嫌がりだし、制作途中の作品を「鬼の顔」だと言って壊そうとしたそうです。力強い肉付けによる彫りの深い顔は意志の強そうなモデルの性格をよく表しており、また荒々しいタッチが作り出す陰影が異邦人ニンツァの神秘的な雰囲気を伝えています。

この作品について信は、「『鬼を作る』といふのも無理ないと思われる位、ニンツァの虚無的、破壊的な凶暴性といったものがにじみ出て居る。」と回想しています。さらに1週間制作を続けた後、本当に壊されかねないと思った悌二郎は早々に石膏に取り、鋳造までしてしまったといいます。わずか2週間で制作された「若きカフカス人」は、「憩える人」とともに第6回院展に出品され、高い評価を得ました。特に「若きカフカス人」は手法、精神性の両面において絶賛と言ってよいほどの評価を受け、今後の活躍が期待されましたが、その約1年半後、悌二郎は結核により、短い生命を閉じました。