函館市旧イギリス領事館には開港の歴史や文化を楽しく学ぶことができる開港ミュージアムがあります!

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船室のような展示室。樽には仕掛けが施してあり、スコープをのぞくと明治へタイムスリップできたり、ハンドルを回すと音楽に合わせてダンスが始まったり。ゆらゆらと波に揺られている気分を味わえるベンチも。

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外国船の影が忍び寄る開港前夜から、ペリーの黒船来航をきっかけに日本で初の国際貿易港として開港するまで、時代や興味深いテーマに分かれて分かりやすくまとまっています。

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△ロシア領事のゴシケーヴィチに写真を習得し、洋服の仕立て人から北海道初の商業写真師になった木津幸吉や、ロシア軍艦で函館に来た画工のレーマンから洋画の技法を学び、その方法のひとつとして写真も習得した横山松三郎。

階段を降りていくと、敷き詰められた絨毯に『箱館開港 世界大鳥瞰図』!

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国際都市函館の外国領事についても解説されていました。1857年に長崎で結ばれた日露追加条約で貿易港としての下田は閉鎖されることになり、ロシア本国は最初の日本領事を箱館に派遣しました。翌1858年にロシア領事ゴシケヴィッチ一行15名が到着。実行寺を仮領事館として教会を建てます。開港後に幕府の許可を受けて日本で最初に作られたキリスト教会です。1860年には現在のハリストス正教会の場所に壮麗な白亜の領事館と付属聖堂を建てて有名になりました。

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△箱館に“ヲロシヤ“も見えます。

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△露西亜もあります。

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煉瓦の赤と窓枠や漆喰の白が織りなすコントラストが印象的な旧ロシア領事館。玄関には寺院風の唐破風や組物を見せる柱頭などが取り入れられ和洋折衷の魅力があります。

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ペリー来航をきっかけに国内初の開港場となった函館(当時は箱館と記していました)。日本とロシア間で1854年に和親条約が交わされると、その4年後にゴシケビッチ初代領事が着任しました。はじめは実行寺内に仮領事館を、それからハリストス正教会の敷地内に正式な領事館を構えましたが、1866年に火災で焼失してしまいます。日露戦争で中断されたのち、1906年にこの場所へ移されました。現在の建物は、大火後の1908年に再建されたものです。
ロシア革命後にはソ連領事館となりますが、1944年に最後の領事が本国へ引き揚げると閉館されてしまいます。その後1996年まで、函館市が青少年宿泊研修施設として一般開放していましたが、現在は閉ざされた門の外から外観のみの見学になっているのがとても残念です。館内は、異世界へタイムスリップするような帝政ロシア時代の豪華な雰囲気が残っているのでしょうか。それとも、函館ならではの和洋折衷の不思議な雰囲気なのでしょうか・・・!
さて、旧ロシア領事館の近くには、ロシアゆかりのお寺が点在しています。

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△開港当初はイギリスやフランスの領事館が置かれていた称名寺。

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△境内には新撰組副長 土方歳三の供養碑や高田屋嘉兵衛の顕彰碑が置かれています。(お写真は函館市公式観光情報サイトはこぶらさんより)

一方、箱館開港後の1858年、ロシア領事の着任当初にロシア領事館としても利用されたのは、実行寺。

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△正門前には、大東亜戦争戦死病殉者供養塔、日露役戦死忠魂塔が建っています。

ほかにも、代表作『若きカフカス人』で知られる近代彫刻の先駆者 中原悌二郎の墓もありました。

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この作品を収蔵している茨城県立美術館の公式サイトによると、モデルはコーカサス(カフカス)生まれのニンツァという名の青年です。アジアを放浪していたニンツァは、大正8年来日しますが、かつてハルビンで知り合った画家の鶴田吾郎の友人を介して、新宿のパン屋中村屋に滞在することになりました。

中村屋に出入りしていた中原悌二郎は、この頃茨城県平磯で病気療養中のため空いていた友人の画家中村彝のアトリエを借りて、ニンツァをモデルに頭像の制作を始めます。悌二郎の妻信(のぶ)によると、制作が始まって1週間が過ぎた頃、ニンツァがモデルになるのを嫌がりだし、制作途中の作品を「鬼の顔」だと言って壊そうとしたそうです。力強い肉付けによる彫りの深い顔は意志の強そうなモデルの性格をよく表しており、また荒々しいタッチが作り出す陰影が異邦人ニンツァの神秘的な雰囲気を伝えています。

この作品について信は、「『鬼を作る』といふのも無理ないと思われる位、ニンツァの虚無的、破壊的な凶暴性といったものがにじみ出て居る。」と回想しています。さらに1週間制作を続けた後、本当に壊されかねないと思った悌二郎は早々に石膏に取り、鋳造までしてしまったといいます。わずか2週間で制作された「若きカフカス人」は、「憩える人」とともに第6回院展に出品され、高い評価を得ました。特に「若きカフカス人」は手法、精神性の両面において絶賛と言ってよいほどの評価を受け、今後の活躍が期待されましたが、その約1年半後、悌二郎は結核により、短い生命を閉じました。

函館の護国神社坂のふもとには、江戸幕府の代理人としてロシアとの交渉に当たったことでも知られている、豪商 高田屋嘉兵衛の銅像があります。

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1801年に国後航路の発見や択捉島開拓、北方漁場の経営、函館の発展に寄与しました。1812年のゴロヴニン事件の際には、江戸幕府がロシア船ディアナ号の艦長ゴロヴニンを幽囚した報復として国後島で捕えられ、一旦はカムチャツカ半島へ連行されましたが、帰国後は松前奉行を説き伏せて艦長の釈放に尽力したことが知られています。

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1958年、函館開港100年を記念して、かつて嘉兵衛の屋敷があった護国神社坂に銅像が建立されました。ゴロヴニン事件で幕府の代理人としてロシア軍艦「ジャーナ」へ乗り込んだ際の、正装の仙台平の袴、白足袋、麻裏草履を履き、帯刀した姿。右手には松前奉行からの論書(さとしがき)、左手には艦内で正装に着替えた際に脱いだ衣類を持っている姿が、的確に再現されています。(以上、函館市公式観光情報はこぶらより内容転載)

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手前には、日露友好の碑。

なお、ベイエリアの一角には、高田屋嘉兵衛資料館もあります。

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淡路島出身ながら“箱館発展の恩人“と称される高田屋嘉兵衛の生涯にまつわる品々約500点が展示されているほか、日本で最初に作られたストーブの復元品も展示されています。(詳細はこちら

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△ほかにも市内には、高田屋嘉兵衛の資料を展示している場所がありました。

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△さて、高田屋嘉兵衛の銅像と日露友好の碑のすぐ隣には、創業萬延元年(1860年)の千秋庵総本家 宝来町本店があり、函館の歴史にちなんで、高田屋嘉兵衛最中やがんがん寺(函館ハリストス正教会の鐘の音は、市民にそんなふうに呼ばれて親しまれてきたそうです)サブレーなどのお土産を購入できます。

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△たまねぎ屋根のハリストス正教会も可愛らしいお菓子は、その名も”函館散歩”。

函館湾を一望できる八幡坂は、函館観光の必見スポット!そんな絶好の場所に建つのがロシア極東連邦総合大学 函館校

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周辺にはハリストス正教会や旧ロシア領事館、ロシア人墓地があり、同じ建物内には、在札幌ロシア連邦総領事館函館事務所や一般財団法人北海道国際交流センターも入っており、まさにここは函館とロシアの交流の中心地ともいえます。

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「ようこそ!」の文字に誘われて思わずなかへ・・・。夏休み期間中でしたが職員の方が親切に案内してくださいました。

ここは、文部科学省にも指定されたロシアの大学の日本校。ウラジオストク市にある極東連邦総合大学 Дальневосточный федеральный университет は帝政ロシア時代の1899年に創建されてから116年の伝統と歴史を持つ大学です。東洋学研究に関しては特に定評があり、現在の学生数は約33000人、9つの学部と、函館校を含む8つの分校があります。2012年にルースキー島で開催されたAPEC首脳会議の会場が新キャンパスになっているそうです。

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△入り口の両側には、夏休みのマトリョーシカ体験絵付け教室の案内やかんたんな挨拶や数のロシア語が紹介されていました。エンブレムのRはRussiaの頭文字、Яはロシア語の私を意味し、二つの文字を結ぶ曲線が“微笑み”をイメージしているのだそうです。

 

そんなロシア極東連邦総合大学の函館校は、ロシア通の国際人育成を目指す日本で初めての学校として1994年開校。2014年で20周年を迎えました。昼2年制のロシア語科と昼4年制のロシア地域学科があり、それぞれウラジオストク本学への留学実習も経験することが出来ます。

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入り口脇に、レトロな趣きの電話ボックスを発見!

この日は夏休み期間で校内は閑散としており、教室内に立ち入ることは出来ませんでしたが、入り口から奥の職員室までの廊下を歩いて、ドア越しにお教室を拝見させて頂きました。

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△図書室

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△ロシア民芸品がたくさん置かれています。

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△ロシア料理メニューもあるという食堂

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△ビーツのようなロシアらしい美しい赤を基調にしたロシアセンター。

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△ロシアセンターのオープニングにはラヴロフ外相も来校されたそうです。

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廊下には、ロシア正教会総主教の来校など、これまでの函館校の軌跡が展示されています。

年間行事のなかでも華やかで目を惹くのが「はこだてロシア祭り」。

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毎年マースレニッツア(ロシアの祝日で冬を送り春を迎えるバター祭り)を、同じく雪国のここ函館でも、函館校が中心となって盛大に開催しているのです。

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△歴代ポスターも力作揃い!

入学希望者の施設見学・授業見学も随時受け付けているそうです。

夜景が有名な函館山のふもとにある函館屈指の老舗洋食レストラン五島軒本店。明治12年の創業から130余年、異国情緒たっぷりに変わらぬ味を伝えてきました。

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国の登録有形文化財でもある五島軒の店舗は、創業時から異国情緒漂うハイカラなものとして市民に親しまれてきました。函館に来たらここでお食事を、と観光客にも大人気。レストラン・雪河亭では、伝統の洋食メニューやインド・フランス・イギリス風と世界のカレーが楽しめるのはもちろん、ロシア料理を頂くことも出来ます。

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予約なしで頂ける『創業の味セット』は、ボルシチスープ(ビーフ)、メイン(サーモンと茸のロシア風またはビーフストロガノフ)、ロシア風サラダ、ロシアケーキ クワード、パンまたはピロシキ(限定20個)。そして今回私が注文したのは『ロシア料理コース』です。五島軒の名前の由来でもある初代料理長の五島英吉氏は、ハリストス正教会で10年間ロシア料理とパンを学びました。現在は、第14代目にして初の女性総料理長が腕をふるっていらっしゃいます。

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△ロシア風オードブル「ザクスキー」。お酒と前菜があれば大満足!というくらい種類豊富なのが嬉しいロシアの前菜。キャビアやイクラ、サーモン・・・贅沢!

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△ボルシチスープ。煮込み料理には特に自信あり!という五島軒自慢の逸品。野菜も肉も大きめで、口の中でとろけるように滋味が広がっていきます。

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△付け合わせには、ほんのり香るライ麦パンなど数種。せっかくなので、ピロシキも注文してみると。日本でよく見られるようなシベリア風(ラグビーボール型の揚げピロシキ)ではなく、珍しいまんまる型でふんわりとした焼きピロシキでした。なかにはお肉がたっぷり。

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△メインの魚料理は、海の幸シャシリック ビネガーソース。フランス料理も人気のある五島軒オリジナルのビネガーソースは、こくがあってまろやかな酸味。ロシアでは屋外でバーベキュー風に戴くことが多いためどちらかというと野性的なイメージのシャシリクを上品にまとめています。

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△お口直しのレモンシャーベット。目の前でショットグラス1杯分のウオッカを振りかけ、火をつけてくれるパフォーマンスも!青白い炎に包まれたシャーベットは、程よくアルコールが飛んで口当たりよくどんどん食べられそうですが気づくと酔いが・・・!?

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△メインの肉料理は、牛フィレステーキ ロシア風。野菜サラダ盛り合わせとともに。じっくり煮込まれた大きなお肉の塊は、ほろほろととろけるように柔らかく、お肉とソースの旨味が口いっぱいに贅沢に広がります。創業の味コースではビーフストロガノフとロシア風サラダが提供されるようですが、ロシア料理コースでもその2品が戴けると、五島軒のロシア料理メニューが網羅されていて喜ばれそうです。

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△デザートとロシアンティー。こちらもとてもロシア的なんですが、五島軒名物のクワードが登場することを期待していた私はちょっぴり残念・・・明治12年ロシア料理とパンの店として創業した五島軒のロシア風ケーキ クワードでしたら、ロシア好きはさらに喜ぶことでしょう!

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△こちらがクワード。くるみとレーズン、表面に塗られたアプリコットジャムがスポンジを引き立てます。(五島軒十文字街店にて撮影)

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△そんなクワードやカレー、ボルシチ缶詰など五島軒名物もお買い求め頂ける館内のスイーツ&デリカショップ「Ashibino」。その奥は、五島軒を舞台に朝日新聞に連載された小説『蘆火野』から名付けられたメモリアルホール「蘆火野」になっています。

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△創業の頃より使用されてきたメニューや洋食器、アンティークなストーブやレジスターなどの調度品、絵画等が展示されています。『蘆火野』の生原稿や佐藤忠良氏の挿絵も。佐藤忠良氏は、シベリア抑留後、ロシア民話絵本『おおきなかぶ』『ゆきむすめ』(福音館書店)などの挿絵等も手がけました。

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明治・大正の香りを今に伝えるレトロな館内は、美しいステンドグラスや美術品に彩られて見どころたっぷり。日本唯一の樺太産ツンドラ材の天井と水晶球のシャンデリアが輝く『王朝の間』では、平成元年に天皇皇后もお食事されました。パーティーやウェディングなど大切な記念日にここを訪れる方も多いようです。

市電「函館どつく」駅から坂道をのぼって徒歩数分、市街地の北西のはずれの函館港を見下ろす高台にある外国人墓地。その一角に、白樺と緑のコントラストが美しいロシア人墓地がありました。

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白い柵で囲まれ、門には鍵がかかっていました。

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紹介文によると、最も古いお墓は、1859年6月29日(露歴)のアスコリド号の航海士ゲオルギイ・ボウリケヴィチのもので、ほかにもロシア軍艦の乗組員25名や白系ロシア人7名など全部で43人のお墓があるそうです。このなかには、初代領事ゴシケーヴィチ夫人や領事館付属聖堂の読経者でのちに魯学校の教師として活躍したヴィサリオン・サルトフも葬られているそうです。

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さて、こちらの門の前で、180度くるりと振り向くと・・・

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そこには函館らしい景色が広がっていました。青森は、緑の感じなどがどこか姉妹都市のハバロフスク地方に似ていましたが、函館のこんな景色も友好都市ウラジオストクに似ています。実際に、明治11年の函館大火後の街区改正では、ウラジオストクの街並みを模倣するように役所が指導したそうです。

この海を臨む外国人墓地の小径を、海へと向かってくだっていくとその先には、

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函館湾の絶景を眺めながらピロシキやロシアンティを味わうことの出来る隠れ家カフェテリア『モーリエ』もあります。

 

 

 

新生ロシア20周年、そして日本におけるロシア正教会の創始者である宣教師ニコライの来日150周年を記念した2011年に、ロシア文化フェスティバル IN JAPANのオープニングが開催された北海道函館市。今年2016年3月、ついに新青森-新函館北斗間の新幹線が開業しましたので、夏休みにはやぶさに乗って北海道・函館へ行ってまいりました。

 

異国情緒溢れる街歩きが魅力の函館を代表する建築物のひとつ、函館ハリストス正教会

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信者の心のよりどころとして神聖で荘厳でひっそりしたイメージのある教会ですが、こちらは観光スポットとして人気があり開かれた雰囲気です。夏休み期間ということもあり、この日もたくさんの人が訪れていました。

 

日本初のロシア正教会の聖堂は、漆喰の白壁と緑の銅板屋根の対比が美しい外観です。1859年、初代ロシア領事ゴシケヴィッチが現在の教会所在地にロシア領事館の敷地を確保しました。翌1860年、領事館付属聖堂として創立されたのが、初代の聖堂です。1907年に起きた大火で建物を焼失しましたが、1916年にロシア風ビザンチン様式の聖堂として再建され、1983年に国の重要文化財に指定されました。

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小塔が6つあり、それぞれに十字架があります。

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八角形の鐘塔から内部へ入ることも出来ます。

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内部は写真撮影禁止ですが(日本正教会と北海道庁のHPより転載)、左右の壁には『十二大祭図』が飾られるなど山下りんの描いたたくさんのイコンを見ることが出来ます。薄暗い建物の中で蜜蝋に灯をともし、香炉から漂う甘やかな香りを胸いっぱいに吸い込んでイコンと対峙すると、信者ではなくても心が洗われるような敬虔な気持ちになります。

 

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1861年に来函した青年司祭ニコライが、この聖堂を拠点に日本で初めてロシア正教を布教しました。

△週末には美しい鐘の音色が響きわたります。市民には“ガンガン寺”の愛称で親しまれているそうで、この鐘の音は「日本の音風景100選」にも認定されています。

https://www.youtube.com/watch?v=aQKfz78Ys08

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△緑溢れる敷地内には、司祭さまのお宅、ロシア連邦名誉領事就任記念みちのく銀行会長 大道寺小三郎氏 平成13年と書かれた記念碑や、函館市・ユジノサハリンスク市姉妹都市提携1周年記念植樹1998年と記された白樺などもありました。

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△信徒会館

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函館市を一望できる見晴らしの良い場所にあります。

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夜には美しくライトアップされた姿が浮かび上がり、函館の街を幻想的に彩ります。

「テルミンという楽器があることは知っていたけれど、こんなにも胸に迫る美しい音楽を奏でるものだと初めて知りました。」テルミン(Терменвокс)という楽器を発明したロシアのレフ・テルミン博士の生誕120周年を記念して、8月11日に日露合同テルミンコンサートが開催されました。

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ロシアのテルミン氏が創りだし、アメリカのモーグ氏が発展させ、そして日本の竹内正実氏が深化かつ進化させたテルミンというユニークな楽器の存在は、今や多くの日本人にも知られるところとなってきました。しかし、レフ・テルミン博士に始まる古典的演奏の系譜を受け継ぐ奏者たちによるこのような本格的なコンサートを味わう機会はまだまだ多くはありません。

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テルミン博士の実娘ナターリア・テルミンさんと曾孫のピョートル・テルミンさんも初来日!テルミン博士の血縁で愛弟子リディア・カヴィナさんにテルミン演奏法を師事した、日本におけるテルミン演奏の第一人者である竹内正実氏監修ならではの生誕120周年記念イベントが企画されました。ご家族だからこそ話せるテルミン博士の姿が明かされるトークショーで幕を開け、浜松楽器博物館で開催中の特別展「音楽と革命それはテルミンから始まった~20世紀と電子楽器の幕開け」レクチャーコンサート、京都の老舗ロシア料理店キエフでのディナーショー、そしてフィナーレを飾ったのが、日露合同テルミンコンサートでした。

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△楽器博物館特別展のポスターの前で記念撮影に応じるナターリア・テルミンさんとピョートル・テルミンさん。三世代のテルミンさん、日本で夢の競演!

 

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△赤煉瓦造りの洋館、早稲田奉仕園スコットホールが会場でした。かつて早稲田大学の創始者大隈重信が宣教師に依頼して開設した学生寮『友愛学舎』で、日本とロシアのテルミン奏者の友愛が音楽になります。ところで、物理学者でチェロ奏者でもあったテルミン博士が、ラジオからヒントを得て考案したテルミンの音色を初めて世に発表したのはサンクトペテルブルグ工科大学で、2015年に竹内氏率いる演奏家の皆様は同じ場所で素晴らしい演奏を披露しロシア人を驚かせました。テルミンには、アカデミックで洒落た雰囲気がよく似合います。

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コンサート前半は、竹内正実氏とテルミン&マトリョミン・アンサンブルMable and Daによる演奏で、テルミンへの愛が表現されていました。人間の声にもよく似た響きを持つテルミンで演奏するアヴェ・マリアは、テルミン博士の誕生とテルミンに出逢えたことへの心からの感謝に溢れていましたし、『アメイジング・グレース』は、2013年に最大数のテルミン合奏でギネス世界記録を達成したときの記念すべき曲です。『さくらさくら』や『黒い瞳』では日本とロシアというテルミンのふたつの故郷へ誘います。そして印象的だったのは、師匠として息子や娘、孫や曾孫のように愛情をもって伝承してきたお弟子さんたちとともに演奏したラヴェルの『ボレロ』でした。一人の踊り子の足音が、次第に周りのお客様たちの心をとらえ、しまいには皆いっしょに踊りだすこのバレエ音楽は、最初から最後まで同じリズムを繰り返しながら、2種類のメロディーがひとつの大きなクレッシェンドをみせていくのが特徴ですが、まさに、テルミン博士から竹内氏へとしっかりと受け継がれてきたテルミンの魂が、ロシアと日本でそれぞれにたゆまぬ進化をつづけ、高らかに響いているテルミン文化そのものへの讃歌のように感じました。

 

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△微笑みながら見守るナターリヤさんとピョートルさん。

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竹内氏が開発したマトリョーシカ型テルミン“マトリョミン”は、本格的な音色とフォルムの可愛らしさでテルミン普及に大きく貢献。コンサートでは、マトリョミンを持参した会場のお客様と一緒に演奏するという参加型の楽しい演出もありました。

そしてコンサート後半には、ナターリアさんとピョートルさんが登壇しそれぞれの演奏で会場を魅了しました。

 

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「テルミン演奏の可能性をここまで見せつけてくれた珠玉の演奏は他にあまりありません。深化させることに彼等は可能性を見いだしており、その方向性は我々と同じ。彼等の演奏はまさに私達が求めてやまないお手本。」そう語る竹内正実氏は、このほどご自身のテルミン演奏の原点とも言える1st CD「Time Slips Away 訪れざりし未来」を再びリリースしました。“ 電子楽器のもとになった楽器”ではなくテルミンという楽器の魅力を伝承していきたいという心意気を感じさせます。

 

 

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レフ・テルミン博士によく似ていらっしゃるというピョートル・テルミン氏。ちょうどテルミンという楽器が発明されたのは、今のピョートルさんくらいの年齢だったそう。まるでレフ・テルミン博士と竹内正実さんが夢のテルミン競演!?

ピョートルさんは、テルミンの歴史や原理を丁寧に説明し、かつてロシア革命の指導者レーニンがテルミン演奏に挑戦したときのエピソードも披露し、その様子を想像しながら聴く『ひばり』もなんだか特別でした。また、ラフマニノフもテルミンの音色を評価していたひとりだったそうで、ラフマニノフ作曲の歌曲『ヴォカリーズ』『歌わないでおくれ美しい人』『ここはすばらしい』は優しくのびやかに会場を包み込みました。「日本とロシアのさらなる交流のために、ロシアで開催されるテルミンのフェスティバルにもぜひ参加してほしい!」コンサート後に興奮した様子でそう話してくださいました。

 

 

 

 

 

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8月28日のテルミン博士のお誕生日当日には、『届け、モスクワへ!』と題して、テルミン・マトリョミン異空同時演奏会も企画されました。テルミンというと、触れずに演奏する珍しい演奏パフォーマンスや、誰でも音が出せるかわりに音階にするのは訓練がいるためうねりのような前衛的な音色のインパクトが強いようです。しかし、テルミンと出逢って20年、マトリョミンを開発してから10年を経て竹内氏はこう語ります。「テルミン演奏の魅力はどこにあるか。その問いに対する答えはひとそれぞれでしょう。私はただ、どこまでテルミンで美しい音色を奏でられるか、という一点についてのみ興味があり、追い求めています。美しい音色を得るには演奏動作を洗練させ、音楽性を育むしかない。心の弱さも動作を介して音に表してしまうテルミンは、まるで自分を映す鏡のようです。もしかしたら一生かけたとて満足のいく音色を手に入れられないかもしれませんが、私の挑戦は今日も続いています。」「手っ取り早く簡単に楽しめるものでは物足りない、長い旅を求める貴方にこそテルミンやマトリョミン演奏に取り組んで欲しい」そんなテルミンの魅力は、ロシアの魅力そのものと通じるところがあるかもしれません。

 

(お写真の一部はマンダリンエレクトロン公式FBページより)

ロシア正教で祈りのために描かれる聖像画“イコン”。明治13年、イコン画家になるため、単身ロシアに留学し、日本最初のイコン画家になった女性、山下りんの貴重な遺品を収蔵、展示している白凛居へ行ってまいりました。

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△月に2、3度のみ開館している白凛居。一軒家のなかがギャラリーになっていて、りんの生涯を辿ることができます。

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△(館内写真は公式サイトより転載)

ご自身の履歴のはじめに「生来画を好む」と書いた山下りんは、描くことを求めて、まっすぐに生涯を過ごしました。安政4年(1858年)茨城の笠間に生まれ、15歳のときにもっと本格的に絵を学びたいと家出して上京。明治政府が創設した工部美術学校初の女子学生の一人となり、そのときに学友の勧めでロシア正教に入信。そしてそこで、彼女の運命を変えるニコライ神父と出逢います。

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△東京・御茶の水の東京復活大聖堂は、ニコライ神父の名前をとってニコライ堂と呼ばれています。(過去関連ブログ 日本のなかのロシア〜台東区・谷中霊園〜

日本で正統のイコンを描ける人材を育てたいというニコライ神父の想いを受けて、山下りんは単身ペテルブルグへ渡り、修道院でイコン画を学びはじめます。ロシアへ行けばさらに西洋画を学べるはずだと考えていたりんは、エルミタージュ美術館へ通い模写をするなど自分の憧れている西洋画と、自分が描かねばならないイコン画との表現の違いに悩み、そのうちエルミタージュへの出入りも禁じられてしまい、体調を崩して帰国します。のびのびとした絵画の可能性とは正反対で、自分の作品の証である署名すら禁じられているイコン。帰国後も数年間の葛藤する時期を経て、イコン画家として生きていく決意を固め、今のニコライ堂の一角にアトリエを与えられて、日本全国のロシア正教会のためにイコンを描き続けます。

 

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修業時代の画材、エルミタージュ美術館で模写した絵、ロシア語の格変化が小さな美しい字でぎっしりと書かれた紙、日本全国の教会のイコンの下絵(長いこと誰が描いたのか謎だったイコンも、りんの遺品のなかに保管されていた下絵の存在で明らかになりました)。そして一番逢いたかったのが、イコンを描き続けた山下りんが、その生涯でたった1枚だけ自分のために描き、署名の許されないイコンの裏側にイリナ山下と自分の洗礼名を記して、死ぬまで手元に置きつづけたというイコン『ウラディミルの聖母』。このイコンに込められた画家 山下りんの魂は受け止めきれないほどに深く重いもので、長い間このイコンの前から動くことができませんでした。

 

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ほかにも山下りんのイコンを求めて全国の教会へ訪ね歩いた写真や、これまでの山下りん展の関連品、ニコライ神父の日記など山下りんに関する書籍や研究本、そしてエルミタージュ美術館に収蔵されている山下りんのイコン画の画像など・・・りんの生涯とイコンを深く感じることができます。

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△りんが生きていた頃からあるという庭の奥の2本の樹木。61歳でこの笠間に戻ってきたりんは、白内障を患いもう絵筆をもつことはなかったそうですが、ロシア時代に強くなったのでしょうか・・・毎日二合徳利をもって日本酒を買いにいくのが楽しみだったとか。ここで 静かに穏やかに余生を過ごしたそうです。

 

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このあと、すこし足を伸ばして、梅で有名な偕楽園を散策したのですが、 正岡子規の句碑 「崖急に 梅ことごとく 斜めなり」をみつけ、どんな環境でも与えられた場所で、精一杯に太陽のほうへ枝をのばし葉を茂らせて、長い冬のあとに美しい花を咲かせ実をつける梅の様子に、山下りんの一生を重ねてしまいました。

 

なお、笠間市内の光照寺に山下りんの墓が、笠間日動美術館では作品もご覧頂けます。

『日本のなかのロシア』をさらに詳しくお知りになりたい方には、『日本のなかのロシア』シリーズ全4冊(東洋書店ユーラシア・ブックレット)や、『ドラマチック・ロシア IN JAPAN』1〜3(生活ジャーナル、東洋書店)をご参照ください。

前回のブログでは、夏目漱石の墓もある雑司ヶ谷霊園でロシアを探しましたが、夏休みに少し足を伸ばした修善寺でも、ちょっと面白いロシアとの出逢いがありました。

温泉街を流れる桂川に沿って、小鳥の声を聞きながら竹林の小径を散策していると・・・和の風景のなかで異彩を放つ洋風建築が!

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修善寺ハリストス正教会顕栄聖堂は、顕栄(主の変容)祭を記憶して建てられており、明治45年に成聖されました。ニコライ大主教が病気治療のために修善寺に湯治にいらしたときに、病気平癒を祈願して、70名の信徒と職人によって3ヶ月半という驚異的な期間で完成したと記録されています。このことへの感謝の印として、神田ニコライ堂で預かっていた日露戦争の時に旅順にあった教会のイコノスタス・水晶のシャンデリア・聖母の絵などがこの聖堂に贈られ飾られています。

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また、日本人で初めてイコン画家となった山下りん作の十字架の聖像が内部の聖堂にあります。18メートルの鐘楼を揚げる聖堂内のイコノスタスは、色彩、デザインとも他の日本の正教会ではあまり類を見ないものだそうです。

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また、2004年に伊豆を直撃した台風22号の影響を受け、聖堂と信徒集会所が大きな被害を受けましたが、現在は無事に修復されました。ロシア正教の洗礼を受けたモイセイ河村伊蔵による設計で、昭和60年に静岡県の有形文化財にも指定されています。モイセイ河村伊蔵が設計し、現在国の重要文化財に指定されている豊橋ハリストス正教会聖堂函館ハリストス正教会復活聖堂にも通じるヴィザンチン建築の美しさがあります。今は、月に1、2度、晩祷・聖体礼儀のときに司祭が訪れ内部へ入ることができます。

 

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弘法大師が修禅寺を開山してから栄えてきたといわれる修善寺温泉は、ニコライ大主教が訪れたこともあり、明治時代にはロシア正教の布教が盛んになりました。この修善寺ハリストス正教会は、地元の有力者でありロシア正教の信者でもあった老舗旅館・菊屋当主の発案だったといわれております。

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△明治期より多くの皇族や政財界の要人が宿泊し、明治末期には文豪の夏目漱石が湯治に訪れたことでも知られている湯回廊・菊屋。桂川の上に架かる渡り廊下を抜けて、明治・大正・昭和・平成・・・と時代ごとに異なる建築様式の客間や温泉が回廊でつながっています。

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△胃潰瘍の療養のために、「梅の間」に宿泊した夏目漱石(現在は「漱石の間」として宿泊可能)。また漱石が滞在したというもう一部屋の客室は、現在は漱石庵として公開されているそうです。館内には、漱石が実際に使用した硯や碁盤も展示されていました。

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△菊屋の歴史が紹介されている廊下のむこうには、八角堂と呼ばれる喫茶スペースになっており、サイフォンで淹れたての水だしコーヒーを頂くことができます。

 

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△金庫の上に置かれているのは、大きなアンティークのサイフォン。本棚には、年季の入った漱石全集とトルストイ!実際に漱石の本棚にも、トルストイの小説があったといわれています。また、ロシアの有名高級食料品店「エリセーエフ」家のセルゲイ・エリセーエフ氏は、日本へ留学し東京帝国大学国文科を卒業後に東洋学者になった人物で、留学時には漱石を中心とする文人の集まりである「木曜会」にも出入りしていたそうで、漱石からは「五月雨や 股立ち(ももだち)高く 来る(きたる)人」と署名のある『三四郎』をもらって、これを家宝にして愛読していたといわれています。

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清流の流れを聴きながら、湯上がりに美味しいコーヒー片手に、ゆったりと漱石の世界へタイムスリップ・・・なんて優雅な過ごし方ですね。

さらに、修善寺温泉の中心に位置し、1872年創業の木造純和風建築が、国の文化財にも指定されている老舗旅館新井旅館の創業初代 相原平右衛門氏もロシア正教の洗礼を受けた一人。

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△文豪の泉 鏡花や芥川 龍之介、尾崎 紅葉、幸田 露伴、画家の横山 大観や速水 御舟、川合 玉堂、俳人の高浜 虚子や、役者の初代 中村 吉右衛門、市川 左団次など、数多くの文人墨客が滞在した宿として知られています。

 

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△明治14年にロシア正教の影響を受けて建てられ、客室として使われていたという新井旅館の青州楼。現在は宿泊・公開されていないそうですが、今も変わらず新井旅館のシンボルとなっています。

 

伊豆修善寺温泉 登録文化財 新井旅館 ブログ  「あらゐ日記」のなかには、の当時の貴重なお写真も。

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ほかにも伊豆には、柏久保ハリストス正教会があります。

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この地区で最も古く明治13年に最初の洗礼が行われました。木造茅葺(かやぶき)の小堂から始まり、その後、現在の会堂が明治42年に建立されました。ロシアから送られたイコンと、山下りんの聖像があるそうです。

(内部のお写真と概要は日本正教会HPから、軒下のぶどう飾りのお写真は新井旅館blogから転載させていただきました。)