リニューアルした新宿中村屋ビルで楽しむロシアをご紹介いたしましたが、こちらは番外編。
温泉も鴨川シーワールドもマザー牧場もいいですが、南房総へいらしたら立ち寄ってほしいのが、館山中村屋さんです。
パンやケーキを買う人で賑わう店内ですが、
注目は、ロシアケーキ。
中村屋さんのロシアケーキの始まりは明治期にまでさかのぼります。新宿中村屋で修行中だった長束実氏が、ロシア皇帝のお抱え製菓技師に正統なロシアケーキ作りの技術を伝授され、その技術を2代目七郎氏が引き継ぎ、戦後3代目長束氏が受け継ぎました。(公式サイトより転載)
まずビスケットを焼き、アーモンド、ピーナツ、砂糖などを用いたマコロンをその上に絞りつけ、さらに丹念に二度焼きして作る6種類のロシアケーキは、現在こちら館山中村屋さんでしか購入できないそうです。
最上階レストラン、3階の美術館、そして最後は地下1階のショップBonnaボンナでお土産選びです。新宿中村屋で1933年から販売され人気商品のひとつだったピロシキが、“新宿ピロシキ“として新たに登場!

△屋台風に揚げたてを購入できます。隣には、もうひとつの人気商品カリーパンも。

△ピクルスが添えられている丸い形が特徴です。


△中身は、たっぷりのお肉にキャベツや春雨、卵などで全体的にふんわりと優しいお味にまとめられている揚げピロシキ。新宿本店限定です!

△人気のボルシチ缶詰。地下2階にはカジュアルなレストランMannaマンナもあり、こちらでもボルシチをオーダーできます。

△ピロシキにも添えられていたアグレッツィ(きゅうりの漬け物)も購入可能です。
ぜひ新宿中村屋でロシアを楽しんでみてはいかがでしょうか。
さて、ボルシチしゃぶしゃぶで暖まったら、同ビル3階の中村屋サロン美術館はいかがでしょうか。

中村屋の歴史を知り、ゆかりの展示をみることができます。「己の生業を通じて文化・国家(社会)に貢献したい」という想いで相馬愛蔵・黒光夫妻によって創業された中村屋は、明治の末から大正にかけて、女優 松井須磨子や彫刻家 高村光太郎、画家 竹久夢二や劇作家 秋田雨雀をはじめ美術、演劇、文学などさまざまな分野の芸術家が集まり“中村屋サロン“と称されていました。

△ミュージアムショップで売られているエロシェンコのポストカード
日本の盲学校で学ぶために大正3年に来日したエスペランティストで盲目の詩人ワシーリー・エロシェンコも、中村屋ゆかりの人物のひとりです。ロシア文学好きでロシア語が堪能であった中村屋創業者の相馬黒光さんの呼びかけもあって、お店で朗読会が開かれたり、エロシェンコが中村屋のアトリエに住まわせてもらうようになったりと深い交流がつづくなかで、中村屋にボルシチが生まれました。(公式サイト内の創業者ゆかりの人々、ボルシチ│商品の歴史│より)
明けましておめでとうございます。日本のなかのロシアをシリーズでお届けしておりますロシア文化フェスティバルblog、今年もお付き合いいただけましたら嬉しいです。さて、ロシア料理の恋しい季節到来。寒いときには寒い国のお料理が美味しいですね!
2014年10月に美術館やテナントも入ってリニューアルオープンした新宿中村屋ビル。おそらく世界でもここでしか食べることができない日露合作メニュー“ボルシチしゃぶしゃぶ“を頂くことができます。

△ロシアはもちろん、インドや中国、フランスなど各国料理を取り入れて商品展開してきた新宿中村屋さんならではのメニューが用意されている最上階レストランGranna(グランナ)。注目のメニュー「ボルシチの和牛しゃぶしゃぶ鍋 シチリアバター&サワークリーム添え」は、ディナーはアラカルトで2300円、ランチは事前予約のうえ6500円のコースメニューのメインとして頂くことが出来ます。

本日のランチコースは、キャビアと蟹のサラダ、フォアグラボールの前菜やウニの茶碗蒸し、魚料理に真鯛のポワレ、そしてついに・・・!

ボルシチしゃぶしゃぶが登場!
テーブルの上の土鍋には、ぐつぐつと煮えたボルシチ風トマトスープ(中村屋のボルシチは、ビーツではなくじっくり煮込んだトマトで赤みをだしています)。すでに下茹でしてあるお野菜やソーセージなどをいれてポトフのようにしてから、そこに、和牛をさっとくぐらせます。

ロシア人にも人気のあるしゃぶしゃぶ鍋。とろけるお肉に、野菜と肉の旨味がたっぷりのスープであったまります。
添えられているシチリアバター(ニンニクとパセリ入り)やサワークリームを落として、味の変化も楽しめます。昭和2年から提供していらっしゃるという中村屋のボルシチは、もともと塊肉ではなく薄切りのお肉を使用していたそうで、厨房でそのボルシチスープとお肉を偶然にもしゃぶしゃぶしてみたら意外にも美味しかったので考案されたようです。
以前の中村屋でも、パーティの裏メニューとして“ボルシチしゃぶしゃぶ“が登場したことがあったそうですが、新生・中村屋の看板メニューのひとつとして新たに加わったのだそうです。
函館では幕末の最後を語るうえで印象深い箱館戦争の舞台となった五稜郭を訪れ、明治にシベリアを横断し、樺太千島交換条約に調印、ロシア特命全権公使を2年間務めた榎本武揚についてもご紹介いたしました。そして、ここ東京にも、榎本武揚像に出逢える場所があります。

それがこちら、墨田区の向島にある梅若公園です。どこかロシアを彷彿とさせる広いまっすぐの道に延々と連なる巨大な団地群。防火壁の役割も果たしているという都営白鬚東アパートにお住まいの皆様の憩いの場に突如出現し、威厳あるお姿で彼方を見つめていらっしゃいます。

榎本武揚が晩年住んでいたのも向島だったことから、この地に建立されたようです。

台座には、『正二位勲一等子爵 榎本武揚像』と記され、

台座の奥には『誠』の石碑も置かれています。
すぐ脇には、 東京都指定旧跡の『梅若塚』もあります。能楽や浄瑠璃、歌舞伎、謡曲などでは『隅田川』に登場する伝説の人物、梅若丸。平安時代、京の都から人買いにさらわれ、挙げ句の果てに隅田川のほとりで病に倒れてしまう12歳の梅若丸と、愛息を捜しつづけ、不幸な結末に絶望して墨田川に身を投じてしまう母を描いた胸の締めつけられるようなお話です。この塚は、身寄りのない梅若丸を看取り、母への想いとともに供養した墨田の人々の情深さの象徴ともいえます。

現在、墨田川沿いには、『すみだが誇る世界の絵師 葛飾北斎が描いた風景をたどろう』という素敵な試みによって、16枚の北斎の絵と実際の風景を見比べながら散歩できるモデルコースなども紹介されています。

榎本武揚像のある梅若公園付近の案内板には、代表作『富嶽三十六景』のなかの1枚『隅田川関谷の里』が解説されていました。
なお、都内には文京区・吉祥寺で榎本武揚のお墓を参拝することができます。また、墨田区でロシアにまつわる場所としてはほかに、回向院に帆掛け船の形をした海難供養碑があり、シベリアを横断してサンクトペテルブルグに赴きエカテリーナ女帝に謁見の後に帰国を果たしたロシア漂流民の大黒屋光太夫の名前が記されています。さらに詳しくお知りになりたい方は、『日本のなかのロシア』シリーズ全4冊(東洋書店ユーラシア・ブックレット)や、『ドラマチック・ロシア IN JAPAN』1〜3(生活ジャーナル、東洋書店)をご参照ください。
2006年4月1日にオープンした高さ107mの新しい五稜郭タワーは函館のランドマークです。

向こうには函館山や津軽海峡、そして目の前に広がる星形の眺望!

展望台には、五稜郭の歴史が学べる展示スペース『五稜郭歴史回廊』も。

いち早く文明開化の道を歩み始めた函館。開港場での交流など、ロシアとゆかりの深い人物や、ロシアに関する記述も。

△『ろしやのいろは』西欧文化に触れ、外国人が箱館の街を歩くようになり、外国語に興味を持つ人も増えてきたときの1冊。

△世界の星形城郭を紹介するコーナーにも・・・

△ロシア サンクト・ペテルブルグの星型城塞、ペトロパブロフスク要塞
五稜郭のなかもお散歩しましたが、ゆかりの人物について学べるようになっていました。

△明治にシベリアを横断し、ロシア特命全権公使を2年間務めた榎本武揚。樺太千島交換条約に調印しました。

△西洋型帆船で航海測量をする一方、露領ニコライスキーまで航海して交易も行った武田斐三郎。

△樺太国境確定交渉の遣露使節団の代表正使としてロシアへ派遣され、日露間樺太島仮規則に調印した小出大和守。

それにしても、さすが函館!街中の案内図やインフォメーション表示には必ずロシア語もあります。
函館市旧イギリス領事館には開港の歴史や文化を楽しく学ぶことができる開港ミュージアムがあります!

船室のような展示室。樽には仕掛けが施してあり、スコープをのぞくと明治へタイムスリップできたり、ハンドルを回すと音楽に合わせてダンスが始まったり。ゆらゆらと波に揺られている気分を味わえるベンチも。

外国船の影が忍び寄る開港前夜から、ペリーの黒船来航をきっかけに日本で初の国際貿易港として開港するまで、時代や興味深いテーマに分かれて分かりやすくまとまっています。




△ロシア領事のゴシケーヴィチに写真を習得し、洋服の仕立て人から北海道初の商業写真師になった木津幸吉や、ロシア軍艦で函館に来た画工のレーマンから洋画の技法を学び、その方法のひとつとして写真も習得した横山松三郎。
階段を降りていくと、敷き詰められた絨毯に『箱館開港 世界大鳥瞰図』!

国際都市函館の外国領事についても解説されていました。1857年に長崎で結ばれた日露追加条約で貿易港としての下田は閉鎖されることになり、ロシア本国は最初の日本領事を箱館に派遣しました。翌1858年にロシア領事ゴシケヴィッチ一行15名が到着。実行寺を仮領事館として教会を建てます。開港後に幕府の許可を受けて日本で最初に作られたキリスト教会です。1860年には現在のハリストス正教会の場所に壮麗な白亜の領事館と付属聖堂を建てて有名になりました。

△箱館に“ヲロシヤ“も見えます。

△露西亜もあります。

煉瓦の赤と窓枠や漆喰の白が織りなすコントラストが印象的な旧ロシア領事館。玄関には寺院風の唐破風や組物を見せる柱頭などが取り入れられ和洋折衷の魅力があります。


ペリー来航をきっかけに国内初の開港場となった函館(当時は箱館と記していました)。日本とロシア間で1854年に和親条約が交わされると、その4年後にゴシケビッチ初代領事が着任しました。はじめは実行寺内に仮領事館を、それからハリストス正教会の敷地内に正式な領事館を構えましたが、1866年に火災で焼失してしまいます。日露戦争で中断されたのち、1906年にこの場所へ移されました。現在の建物は、大火後の1908年に再建されたものです。
ロシア革命後にはソ連領事館となりますが、1944年に最後の領事が本国へ引き揚げると閉館されてしまいます。その後1996年まで、函館市が青少年宿泊研修施設として一般開放していましたが、現在は閉ざされた門の外から外観のみの見学になっているのがとても残念です。館内は、異世界へタイムスリップするような帝政ロシア時代の豪華な雰囲気が残っているのでしょうか。それとも、函館ならではの和洋折衷の不思議な雰囲気なのでしょうか・・・!
さて、旧ロシア領事館の近くには、ロシアゆかりのお寺が点在しています。

△開港当初はイギリスやフランスの領事館が置かれていた称名寺。

△境内には新撰組副長 土方歳三の供養碑や高田屋嘉兵衛の顕彰碑が置かれています。(お写真は函館市公式観光情報サイトはこぶらさんより)
一方、箱館開港後の1858年、ロシア領事の着任当初にロシア領事館としても利用されたのは、実行寺。

△正門前には、大東亜戦争戦死病殉者供養塔、日露役戦死忠魂塔が建っています。
ほかにも、代表作『若きカフカス人』で知られる近代彫刻の先駆者 中原悌二郎の墓もありました。

この作品を収蔵している茨城県立美術館の公式サイトによると、モデルはコーカサス(カフカス)生まれのニンツァという名の青年です。アジアを放浪していたニンツァは、大正8年来日しますが、かつてハルビンで知り合った画家の鶴田吾郎の友人を介して、新宿のパン屋中村屋に滞在することになりました。
中村屋に出入りしていた中原悌二郎は、この頃茨城県平磯で病気療養中のため空いていた友人の画家中村彝のアトリエを借りて、ニンツァをモデルに頭像の制作を始めます。悌二郎の妻信(のぶ)によると、制作が始まって1週間が過ぎた頃、ニンツァがモデルになるのを嫌がりだし、制作途中の作品を「鬼の顔」だと言って壊そうとしたそうです。力強い肉付けによる彫りの深い顔は意志の強そうなモデルの性格をよく表しており、また荒々しいタッチが作り出す陰影が異邦人ニンツァの神秘的な雰囲気を伝えています。
この作品について信は、「『鬼を作る』といふのも無理ないと思われる位、ニンツァの虚無的、破壊的な凶暴性といったものがにじみ出て居る。」と回想しています。さらに1週間制作を続けた後、本当に壊されかねないと思った悌二郎は早々に石膏に取り、鋳造までしてしまったといいます。わずか2週間で制作された「若きカフカス人」は、「憩える人」とともに第6回院展に出品され、高い評価を得ました。特に「若きカフカス人」は手法、精神性の両面において絶賛と言ってよいほどの評価を受け、今後の活躍が期待されましたが、その約1年半後、悌二郎は結核により、短い生命を閉じました。
函館の護国神社坂のふもとには、江戸幕府の代理人としてロシアとの交渉に当たったことでも知られている、豪商 高田屋嘉兵衛の銅像があります。

1801年に国後航路の発見や択捉島開拓、北方漁場の経営、函館の発展に寄与しました。1812年のゴロヴニン事件の際には、江戸幕府がロシア船ディアナ号の艦長ゴロヴニンを幽囚した報復として国後島で捕えられ、一旦はカムチャツカ半島へ連行されましたが、帰国後は松前奉行を説き伏せて艦長の釈放に尽力したことが知られています。

1958年、函館開港100年を記念して、かつて嘉兵衛の屋敷があった護国神社坂に銅像が建立されました。ゴロヴニン事件で幕府の代理人としてロシア軍艦「ジャーナ」へ乗り込んだ際の、正装の仙台平の袴、白足袋、麻裏草履を履き、帯刀した姿。右手には松前奉行からの論書(さとしがき)、左手には艦内で正装に着替えた際に脱いだ衣類を持っている姿が、的確に再現されています。(以上、函館市公式観光情報はこぶらより内容転載)

手前には、日露友好の碑。
なお、ベイエリアの一角には、高田屋嘉兵衛資料館もあります。

淡路島出身ながら“箱館発展の恩人“と称される高田屋嘉兵衛の生涯にまつわる品々約500点が展示されているほか、日本で最初に作られたストーブの復元品も展示されています。(詳細はこちら)

△ほかにも市内には、高田屋嘉兵衛の資料を展示している場所がありました。

△さて、高田屋嘉兵衛の銅像と日露友好の碑のすぐ隣には、創業萬延元年(1860年)の千秋庵総本家 宝来町本店があり、函館の歴史にちなんで、高田屋嘉兵衛最中やがんがん寺(函館ハリストス正教会の鐘の音は、市民にそんなふうに呼ばれて親しまれてきたそうです)サブレーなどのお土産を購入できます。

△たまねぎ屋根のハリストス正教会も可愛らしいお菓子は、その名も”函館散歩”。
函館湾を一望できる八幡坂は、函館観光の必見スポット!そんな絶好の場所に建つのがロシア極東連邦総合大学 函館校。

周辺にはハリストス正教会や旧ロシア領事館、ロシア人墓地があり、同じ建物内には、在札幌ロシア連邦総領事館函館事務所や一般財団法人北海道国際交流センターも入っており、まさにここは函館とロシアの交流の中心地ともいえます。

「ようこそ!」の文字に誘われて思わずなかへ・・・。夏休み期間中でしたが職員の方が親切に案内してくださいました。
ここは、文部科学省にも指定されたロシアの大学の日本校。ウラジオストク市にある極東連邦総合大学 Дальневосточный федеральный университет は帝政ロシア時代の1899年に創建されてから116年の伝統と歴史を持つ大学です。東洋学研究に関しては特に定評があり、現在の学生数は約33000人、9つの学部と、函館校を含む8つの分校があります。2012年にルースキー島で開催されたAPEC首脳会議の会場が新キャンパスになっているそうです。

△入り口の両側には、夏休みのマトリョーシカ体験絵付け教室の案内やかんたんな挨拶や数のロシア語が紹介されていました。エンブレムのRはRussiaの頭文字、Яはロシア語の私を意味し、二つの文字を結ぶ曲線が“微笑み”をイメージしているのだそうです。
そんなロシア極東連邦総合大学の函館校は、ロシア通の国際人育成を目指す日本で初めての学校として1994年開校。2014年で20周年を迎えました。昼2年制のロシア語科と昼4年制のロシア地域学科があり、それぞれウラジオストク本学への留学実習も経験することが出来ます。

入り口脇に、レトロな趣きの電話ボックスを発見!
この日は夏休み期間で校内は閑散としており、教室内に立ち入ることは出来ませんでしたが、入り口から奥の職員室までの廊下を歩いて、ドア越しにお教室を拝見させて頂きました。


△図書室

△ロシア民芸品がたくさん置かれています。

△ロシア料理メニューもあるという食堂

△ビーツのようなロシアらしい美しい赤を基調にしたロシアセンター。

△ロシアセンターのオープニングにはラヴロフ外相も来校されたそうです。

廊下には、ロシア正教会総主教の来校など、これまでの函館校の軌跡が展示されています。
年間行事のなかでも華やかで目を惹くのが「はこだてロシア祭り」。

毎年マースレニッツア(ロシアの祝日で冬を送り春を迎えるバター祭り)を、同じく雪国のここ函館でも、函館校が中心となって盛大に開催しているのです。



△歴代ポスターも力作揃い!
入学希望者の施設見学・授業見学も随時受け付けているそうです。